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先日、池田市にある前方後円墳『茶臼山古墳』へ立ち寄った帰りに見つけた神社。
その名も『呉服神社』だ。
写真の縁起にあるように
西暦308年の御請願(誰の請願?天皇の?)に応じ
中国大陸の呉の国王(三国時代?)が絹織物の得意な姉「織姫」を遣わされたとある。
そして、織姫はこの神社の界隈に桑がたくさん自生していたので
日本で初めて「蚕→まゆ→生糸染色→絹織物」という一貫した制作をしたのだそう。
通説では、三国志(魏・呉・蜀)に出てくる呉の国は、西暦280年に西晋に滅ぼされたと言っているので
現大阪府池田市に絹織物技術が伝わったのは、呉が滅亡してから約30年後に呉の王が織姫を寄越したという矛盾が生じる。
しかし、口伝や伝承に誤差はつきものだろうし
呉の国も西晋に飲み込まれたからといって、自治体としての呉は存続した可能性もある。
この写真にある『呉服神社御縁起』を読むにあたり
卑弥呼が「中国大陸沿岸部を領土に持つ魏」へ朝貢した時点から約60年後の出来事であり、同じく「中国大陸沿岸部を領土に持つ呉」の国とも交流を持っていたということになる。
(魏と呉は敵同士)
中国大陸沿岸部のとある場所の発掘調査で、三国時代の民家のレンガが出土したという記事を10年以上も前に読んだことがある。
そのレンガには当時の落書きが残っていて、「倭(日本)が魏か呉のどちらにつくかで戦局が変わる」というような内容だったと記憶している。
もし、この織姫が本当に呉の国王の姉ならば、有事の際(魏または西晋との戦争)に倭から呉へ援軍を出させるために、見返り(人質)として送ってきた可能性も出てくる。
はたまた、呉の王は国が滅亡するのを分かっていたからこそ、姉を逃す為に倭へよこしたのかもしれない。
まぁいくら考えても物証がないので想像の域を出ないのだが・・。
でも、だからこそ古代史は面白いのだ。
日本に普及して久しい『呉服』。
かつては絹織物の事だった『呉服』。
そのルーツから
壮大な妄想を膨らませてしまうのであった。



